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興津坐漁荘の正門の画像
坐漁荘の裏屋敷の画像

【「興津坐漁荘記念館」(西園寺公望公別邸)】

明治の元老・西園寺公望公が政治の最前線から引退した後、別邸として大正8年に旧東海道沿いの興津清見寺町に建てた別荘です。
老朽化のために取り壊され、愛知県犬山市の明治村に移築されましたが、公が好んだ竹の欄間の精密な造作を始め、優れた職人技が凝縮された建築物です。
復元工事により、平成16年から一般公開されています。建物は木造2階建ての京風数奇屋造りで、図面を基に忠実に再現されています。(興津坐漁荘パンフレットより)


水口屋の石碑の画像
水口屋の画像

【 碧楼水口屋敷跡 脇本陣(水口屋ギャラリーフェルケール博物館別館)】

江戸時代の興津宿の脇本陣で、明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、日本の政治・経済の大物たちが数多く宿泊しました。
現在は、昭和天皇が宿泊された際に使用された物品などが展示されています。(興津坐漁荘パンフレットより)
宮家や政治家、文化人の別荘旅館として利用された様子がアメリカ人オリバー・スタットラーの著書「JAPANESE INN」で紹介しており、外国人の間でも水口屋は有名になりました。
しかし、昭和60年には400年続いた旅館の歴史に幕を降ろしました。現在その一角を水口屋ギャラリーとして水口屋と興津に関する資料を紹介しています。(フェルケール博物館より)


興津宿東本陣跡の画像興津宿西本陣跡の画像

【興津宿東本陣跡】

興津宿には本陣が2軒あり、東本陣は教敬山耀海寺を開いた市川法清を祖にもつ市川家がつとめた。

【興津宿西本陣跡】

もう一つの本陣であり、西本陣は手塚家がつとめた。寛永12年(1635年)から明治3年(1870年)まで東本陣の市川家と月番で営んでいた。

(メモ)本陣とは、宿場におかれた大名などの宿泊施設の事をいいます。




さった峠の石碑のの画像
さった峠からの眺望の画像

【 さった峠】

江戸時代東海道の難所として、また風光絶佳の地としても知られています。
ここは観応の騒乱(1351年)で足利尊氏と弟直義の戦った地であり、永禄11年(1581)の武田と今川、翌12年(15282)武田と北条の対峙した古戦場でもあります。(峠入口まで駅から2km)

★平成30年6月9日さった峠へトレッキング★

八木間町のクロネコヤマト運輸を起点に興津川沿いの遊歩道を歩き、きよみの里(興津東町にある介護施設)の前の入口より登る。
現在、さった峠の少し手前にある見晴台は立ち入り禁止になっていました。
あいにくと富士山は雲にかくれて見えず、さった峠に到着してから帰りは興津の井上町側へ下り、出発点へ戻りました。(所要時間は約2時間で距離は6Km)

さった峠のトレッキング地図
さった峠のトレッキング画像

興津東町側の登り口のトイレあり(5台位駐車可能)。

登り口の案内図

登り始めて最初の案内指標

途中の名勝案内の石碑

浮世絵の風景と同じような景色が見える(富士山が見えると最高の場所)。

中間地点位にある道標

道中の三保方面景色

さった峠(由比、興津井上町から車で来れる。10台位駐車可能でトイレがある。)


石塔寺跡と身延道の画像

【 石塔寺跡と甲州道】

東海道を西から来た旅人が、身延山参詣や甲府へ向う分岐点で、この角に日蓮宗の石塔寺があった。
今も道標として巨大な題目碑が立っている。
この石碑を四ッ乳の作右ェ門という力持ちが一人で背負ってきたとの伝承がある。
側面に承応三年(1654年)甲牛七月の銘がある。
(駅から400m)
興津地区まちづくり推進委員会・静岡市清水商工会資料より

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